お片づけのお手伝いTRIP IN 宮城県多賀城市
五月四日から五日にかけて東北ボランティアにいってきました。
たった二日なので偉そうにはいえないけど、聞かれることが多いので、経験をシェアできればと書いてみます。
【ボランティアという用語について】
ボランティアっていうだけで「その偽善的な響きがやだ」という方もいると思います。
隣のおばさんちのお手伝い、といいなおしてみてはいかがでしょうか?
だからこの文章ではこれから”ボランティア”を”お手伝い”に言い換えてみますね。
何か疑うなら、まずやってみることがmyRule!
【目的】
・少しでも役立ちたい。
・私たち、俺たちが今行っても何も役立たない。だからここでできることをするしかない。という発言に疑問があったから。
・こうかもしれない、ああかもしれない、いろんなうわさが立つけれど二次的な情報ではなく自分の目と耳で情報を信じたいから。
・LunchTripをやっていたり、仕事でもたくさんの外国人に接する中で、日本人として今回の震災についてきちんと実体験として語れるべきだと思ったから。
【行く前の葛藤:ありがた迷惑】
ご存知のようにGW直前には「お手伝い過多 いっても何もできません」という新聞記事が出ました。これはうそではないと思う。
4月29日、宮城県お手伝いページhttp://msv3151.c-bosai.jp/からGW中も募集している自治体を探して電話すると、「ごめんなさい、今対応しきれない状態なんです」とのこと。中枢機能が麻痺してしまっているところが多すぎるのではないか、と仮説。
「ありがた迷惑になるかもしれないのでそれは嫌」ということで友人もいけなくり、一度はあきらめかけました
けれど、この被害の大きさ÷お手伝い数だと、明らかに足りないのは明確何じゃないかと思った。
だから、FACEBOOKで行ったとかいてある友人3人に連絡をとると、みなが口をそろえて「足りてない」という。
そして、行きたいという別の友人をみつけた。彼女は家族にかなり心配されてたし、本人もかなり不安だったみたい。でも、彼女の意志が勝った。
東北の現地にいる友人から「多賀城市なら直接朝行けばお手伝い可能」というお墨付きをもらえたので、いくことに決定!
【交通】
当日の朝、バスを取る。夜行で地元から仙台まで3500円。wowやすい笑!
新幹線で行くと朝つくのが早くても8時半になり、間に合わないと思ったので夜行にしました。
臨時バスはがらがら。意外にもよく寝れて、運転手さんに起こされて目を覚ますw
友人と合流して多賀城駅へ向かう。仙台から石巻に向かう電車にのって20分強。
【市役所でのマッチング】
市役所に向かう途中、「これでもう仕事はありませんといわれたら・・・」という不安もあったけれど、お手伝いためのお手伝いがやさしく迎えてくれた。
お手伝い保険登録もここでさせてくれる。
でもここから1時間くらい列に並んだ。なにやらマッチングに時間がかかっているみたい。
やっぱり、お役所仕事なのかなーなんて思ったけれど、この人たちを責めるつもりはぜんぜんありません。
彼らの胸にかかっている札をみて驚いた。
「岡山市役所派遣」「大阪市役所派遣」
このひとたちもお手伝いなんだな。。
彼らのお仕事は、毎日くる被害届を紙にまとめて、お手伝いとマッチングすること。
被害届は主に壊れた家屋に関するもので、一階の窓が壊れている/庭に他人の家の家具が着てしまっている/などなど。それに対し、男性●名女性●名、箒・たわしなどの数などを決めているようです。
【1日目の作業】
さて、マイクロバスに乗り5分ほどバスに乗り、早速作業。
一見、傾いてもいない立派な2F建て。家の中をみるとびっくり。1.8mまで水位がきたようで、何もなくなっていました。床もはがしてある。
私たちは、お庭にたまった油まみれの泥を取り除くのがお仕事でした。
団塊世代、一人暮らしの奥様のおうち。だんなさまは亡くなっていて、仙台に住む息子さんご夫婦と娘さんが家の中をきれいにしてくれたそうです。
私たちが作業し始めて第一声で、きてくれてほんとうにありがとう、と。ありがた迷惑なんて言葉はとんでもない、昨日も一日お手伝いさんが来るのを待ち続けていた、と。
そのほかにも私たちの近くに座って色々話してくださいました。
心臓病を患っていること。地震のときは家にいて、揺れが怖くて外に出て隣の奥さんと抱き合って震え上がっていたこと。隣の家の息子さんがトラックできて、「津波が来る、逃げろ!」といわれたので机の上にあったバッグだけ持って走って逃げたこと。老人ホームの前に車椅子の方々がいて、助けようとしたけれど大丈夫といわれたこと。避難所の小学校ではコンビナートが燃えているのが見えて、それが自宅の方向だったこと。窓から離れないと爆発するかもしれないという怖かったこと。
スコップを持って泥だしをしている間に、これだけのことを話してくれました。
私たち女性2人組みのぎこちなさをを見かねてか、「いつもはこんなもの持たないだろうに申し訳ない」「東京のお嬢さんにこんなことをさせて申し訳ない」しきりにおっしゃってました。
お昼は、何もなくなってしまった部屋の中で、掘り炬燵があった穴を囲んでいただきました。
持ってきたおにぎりを食べている私たちに、奥様は梅ジュースを炭酸で割った飲み物を出してくれた。それは冷たくて、なーんにもないこの家に見合わない、でも奥さんの優しくて上品な人柄が表れている味だった。
来ているひとたちは、地元のおじ様が3人、茨城から、千葉からが1人ずつ。そして大学生の男の子は一人が鹿児島、一人が東北大から来た子だった。みんなそれぞれ経験や地震に対する捉え方が違う。特に、鹿児島出身九州大学の子の周りでは、地震のニュースを3日後に知った人もいるくらい、別世界の出来事だという。行く前に「お前が行っても何ができることがない」と回りに言われ続けてきたとのこと。「ありがた迷惑といわれるのではないか、という不安を持ってきた」という告白をしたわたしに、激しく同意してくれたのも彼だった。
午後も作業を再開。楽ではないけれど、ぱっと顔をあげると自分の7倍進んでいるのを見るのはうれしいし、奥さんが喜んでくれる顔を見てくれるのもうれしい。
奥さんは明るくしていたけれど、やはり話し続ける中で時折本音を見せた。「老後のためにお金をためていたのに、TVも買い換えろっていわれたから買ったばかりなのに、がっかりだよ・・・」「車もなくして、家も全部リニューアルしなくてはいけないのに、160万円だって・・もらえるのはうれしいけど、何ができるっていうの」怒りをぶつけるのではなく、悲しそうにつぶやく声が、まだ耳に残っています。
お庭から泥だしをする作業の中、色々なものが出てきました。
割れた1Fの窓ガラス。ご主人が好きだった映画のCD。どこからか流れてきた苗。何かの申し込み用紙。生活の中、私の家の中にありそうなものがたくさんでてきました。恐ろしいことに、慣れてきてしまう自分がいたけれども。
3時になると強制終了。
もしもまた東北に遊びに来ることがあったら、必ず遊びにきてね。そういって住所を渡してくれました。
仲良く集合写真をとって、石灰をまいて。
私たちはここでいったん離れるけども、奥さんは「避難所ではプライバシーがなさすぎて 寝られない」といって、どうにか残った2Fのベッドに戻っていきました。
そう、お手伝いは本当に一瞬。一部しかできることはない。でも、同じ多賀城の避難の少ないおじ様方は毎週末通っていらっしゃるとの事です。
こうやって年配の方々ができないことを、少しずつでも手伝っていくことが必要だなと思いました、
【仙台市街での夜】
その日の夜は、まず仙台在住の高校友人と再会。
記憶のとおりアーケードは電気も人も活気もあった。
東京に実家があるにもかかわらず、一度も戻らずにすごす友人を、ご家族はさぞ心配しているはず。でも、「わたしなんて全然被害のないほう。ここに残って、少しでも経済をまわすことに決めたの」とのこと。昔からの根っこの強さが見えた気がしました。
震災後しばらくは、スニーカーにリュックという服装でしか動けなくなったけども、今は普通にパンプスを履いているとの事でした。
その子のお勧めで、利休へ。ここの牛タン、おいしすぎー!!硬さもちょうどいいです。
そこでも、お兄さんたちが話しかけてくれて。私たちが東京からとしると、かわるがわる店員さんがきて、僕は多賀城の出身なんだとか東京のこのエリアが好きだとか、色々話してくれました。
びっくり!仙台のひとってこんなにフレンドリーだっけ?というくらい。
(ここで初めて牛タンのタンはToungueで、終戦後米軍用のビーフのあまりを使った料理が始まりと知りました。とりびあーん。)
みんな順番にありがとうといってきてくれて、最後には売り物のクッキーまでいただきました。
教えてもらったバスで帰るも結局おりそこねてタクる。けれど、タクシーのおじさんがこれまた面白くて大笑い。
最後におじさんが言った一言をメモ。「東京に帰ったらね、お手伝いしなくてもいい、ここにきて少しでもおいしいもの食べて温泉でもはいってくださいって伝えて」。
【宿泊】
事前に行った友人のお勧めどおり、わたしたちはメープルユースホステルhttp://maple-yh.ftw.jp/ に泊まりました。夜は、他のお手伝いや学生たちと盛り上がり。お酒は飲まなかったけれど、ここのご夫婦がよく飲んで、また面白くて。寝泊りするだけならこれで3000円しなくて驚きです。
次は豪華に温泉宿でもいいかなーと思ったりしてます☆
【2日目の作業】
翌朝。多賀城市役所に行くと前日よりさらに人が減っていて、ほとんど待たずにゴー。朝からテンションの高かった私たちはバスで笑ったりしていたけれど、振り向くとその笑いを一瞬で吹き飛ばす風景が広がっていた。
そこには無数の車が横転していて、窓ガラスが割れていて、あったであろう人の暮らしが奪われていた。
昨日のお宅から10分も離れていないだろうに、被害状況がこんなにも違うのか。
車が通ったりするには問題ないけれども、お店はみな営業停止していて、家にも人の気配がない。
私たちが着いた家もまた、1Fが壊れていた。今度はまだ家の中の泥だしが終わっていない。昨日の家の泥だしがどれだけ大変だったのかということをこの時点で改めて感じた。
私の役目は、仏壇とその上においてあったものを洗うこと。
そこには、なくなったご主人の写真もあった。その写真についた泥を流しながら、ここからみえた泥の中の世界を想像した。
油と泥に埋もれた自分の家。生活用品が流れ出していく。自分の家のものが流れ出ていくところが想像できて、ぞっとした。
この写真から見る風景を思った。写真の色が流れていかないように注意しながら水で泥を流すと、そこには笑顔のご主人がいた。何もなかったように、笑っていた。
その後はお庭の掃除。この庭には紙ごみが舞って白い花のように散らかっていた。いや、もっと汚いか。ガラスと紙とそれ以外が混じった大量のごみを取り除くことが、私たちの仕事だった。
よく、ヘドロ交じりで臭かったでしょうといわれるけども、それはなかった。スコップも女性用に小さいものを用意していただいていたし、重いものは男性陣が運んでくれた。仏壇のものを洗ったり、奥さんのお話を聞いたり、女性にも役立つことはたくさんあるよ。
家主の80歳を越えたおばあさんとその娘さんは隣の町にアパートを借り、毎日片付けに来ているという。
途方もない作業なので、お手伝いに力を借りているというわけ。
おばあさんは自分が20代銀行勤めの頃に縫った着物が無事だったことをとりわけ喜び、何度も見せてくださった。
女性のおしゃれ心は、どんな状況でも変わらない。
私と友達はそのことを確信して、うれしくなった。
【帰京】
新幹線で帰京。二時間はあっという間の。
大学の先生によばれて学生の飲みに顔を出す。ぜひ、今私がやってきたことを伝えて、と。
(でもうまくいえなかったのでこうやって書いているんです)
思えば、お手伝いを依頼する人も市役所のひとも、利休の店員もタクシーの運転手も、
誰も「また来てね」といわなかった。
誰もが、言いすぎですよ、というくらい「ありがとう、そして申し訳ない」を繰り返していた。
彼らは何も悪いことをしていないのにね。
たくさんのひとに、FACEBOOKで見たよ、話を聞かせて!といわれたので、これを描きました。
そして、何より伝えたかった。直後のFBでも呟いた、以下のことを。
”経済を回すための消費は絶対必要。復興のための寄付も戦略も必要。でも、一人暮らしのお年寄りが泥まみれの家に戻るには、マンパワーがいるのです。
わたし非力だとずっと思ってたけど今回、ほんの少ーしでも役に立てたと思う。でも、圧倒的に足りない。もっと若い人たちの力が必要!”
東北に行ったという話から、「すごいね。えらいね。」という言葉をもらっても、正直あまりうれしくない。
それよりうれしいのは、「わたしもいこうとおもってるんだよ」「いってみようと思った」ということ。
もし迷っている人がいたらいってほしい。
今、私たちが行くことが誰かの人生を変えるかもしれないんだよ。おうちに帰れるってすごいことなんだから。
世界を変える●●みたいな本や会社がはやっているけれど、できることからやっていくことも必要なんじゃないかなーと思う。
もちろん、普段の仕事や消費は続行☆
要は、お手伝い不要論は不要ってことです☆
【目的に対する振り返り】
・少しでも役立ちたい。
⇒ほんの少したった。
・「今回は長期戦だから、私たち、俺たちが今行っても何も意味がない。だからここでできることをするしかない。という発言に疑問があったから。
⇒意味ある!特に若者のパワーは計り知れないと思う。
暑くなる前になるべく早く元の家に戻してあげないと、避難所にこれ以上いるのは厳しいと思う。
特別なスキルがあってそれを生かしにいくのがかっこいいと思っていたけれど、そんなことなかった。
特別なスキルより、向き合う覚悟が必要.
これに関しては友人のまーくんのtweetがうまくまとまっているので、引用。
”感受性の高い人は、とくに被害の大きな地域に行く際に、心の準備をしておくことが重要だと思う 実際に自分で被災地を見ることは確かに重要。 でも、なんの代償も無く見れるものでは決してない。そんなことが許されるところでは決してない。”
・こうかもしれない、ああかもしれない、いろんなうわさが立つけれど二次的な情報ではなく自分の目と耳で情報を信じたいから。
⇒野次馬的で悪いかと思ったけれども、現地の方からは「どんどんみに来て、忘れないで」といわれた。
・LunchTripや仕事で外国人と接する中で、日本人として今回の震災についてきちんと実体験として語れるべきだと思ったから。
⇒情報はまだまだ足りない。でも、東北の人が元気で前向きに過ごしているけれど、まだまだ助けが必要な現状は伝えることができるかな。
帰ってきて10日間たった日、チャリティファッションショーを見ていて、急に涙が出ました。
色々思い出しちゃって。
あーながくなっちゃった。
明日もお仕事がんばろうね;)ちゃんちゃん!