3/12 LunchTripミャンマー品川便『発酵食の魅力』〜後編(品川の魅力)〜
前回のミャンマーの発酵食についての話はいかがでしたでしょうか。
今回は、会場となりましたKAIDO books & cafeとミャンマー大使館のある品川区の魅力について、当日のプレゼンを振り返りながら報告致します。
品川と発酵食の繋がりとは?
当時はどのような場所として機能していたのでしょうか?
歴史を追いかけながら品川区の魅力をお楽しみください。
~品川紹介について~
今回のLunchTripミャンマー品川便は、品川区シティプロモーション わ!しながわ魅力発信事業の一環として行われています。
ここまで、ミャンマー、ミャンマーの発酵食の魅力について探ってみましたが、ここではミャンマー大使館があり、会場のKAIDO books & coffeeのある品川の魅力も探っていくことにします。
ミャンマー大使館のある場所は品川区北品川4丁目。近くには、原美術館などがあり、ミャンマー大使館から会場のKAIDO books & coffeeの方向を見ると、下り坂になっていて、ミャンマー大使館が少し高い場所にあることがわかります。
大使館の場所は「御殿山」と呼ばれています。「御殿」と呼ばれるように、江戸幕府の歴代将軍の鷹狩の休息所、「品川御殿」がありました。
では、江戸時代、ここはどのような場所だったのでしょうか?
この浮世絵に描かれているように、江戸時代、先ほどの坂の先には品川湊が広がっている、とても展望が良い場所です。そして、花見の名所でもありました。とてもにぎわっていますね。なんかとっても楽しそうです。
御殿山の奥に見えているのは、東海道品川宿。会場のKAIDO books & coffeeの目の前が東海道です。東海道は、江戸と京都大阪を結ぶ大動脈。江戸から出て、東海道第一番目の宿場町が品川宿です。 伊勢や東海地方と関東を結ぶ海運の拠点でもありました。
品川宿は、参勤交代、飛脚、寺院の拠点と多種多様な業種の拠点でもありました。
そして、大小さまざまな旅籠屋がありました。
当時の品川は、海苔や海産物がとれる豊かな海が広がり、月の名所でもあり、紅葉の名所もあり、先ほどのように花見の名所でもありました。とても風光明媚な場所だったのですね。
先ほどまで、ミャンマー、ミャンマーの発酵食のお話をうかがいました。それでは、品川にはどのような発酵食があったのでしょうか?
まず有名なのが「沢庵」です。
2代将軍 徳川家光が招いた、品川東海寺の沢庵和尚。沢庵和尚が家光に沢庵をお出ししたところ、このつけものを「沢庵」と名付けた、とも言われています。
漬け方も品川の各地区で様々で、品川宿では、「砂糖や味醂を入れて味をよくした」と残っています。
品川では、「甘酒」も広く作られていました。
荏原町にある旗ヶ丘八幡神社では、2月に「甘酒祭り」とも呼ばれる祭礼が行われていて、お歩射と呼ばれる弓を放つ儀式が行われ、甘酒が振る舞われます。江戸時代から村中の家々からもち米を集めて、神社で4斗樽で作られたそうです。
摩耶寺(まやじ)東京都品川区荏原にある寺院は、いまも甘酒を作ってふるまわれるそうです。
「かくやづけ」という漬物が今も品川宿で作られています。
KAIDO books & coffeeの向かいに「いってつ」さんという蕎麦屋さんで売られています。
「かくやづけ」とは、きゅうり・カブ・人参・茄子などの野菜をぬか床に10日以上漬けて「ふるづけ」にして、刻んで、シソ、生姜、とうがらしや昆布などで味付けをするのだそうです。
さて、はじめのミャンマー大使館に再度戻ってきます。ここの坂、実は江戸時代に人工的にできた坂だったのです。では何でできたのでしょうか?
「お台場」でした。
1853年7月7日(旧暦6月3日)、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーMCが浦賀港に来航、翌年の再来航の予告を受け、江戸幕府は翌1854年江戸防衛のため、お台場築造を始めます。
そのために、江戸の憩いの場であった御殿山が削られ土砂が運ばれます。
その後、江戸幕府は日米和親条約を締結(1854年)。
御殿山に、イギリス、アメリカ、フランス、オランダ4カ国の公使館建設が計画されました。
イギリス公使館は、建設途中の1862年に長州藩士 高杉新作、のちに明治政府の閣僚を歴任した志道聞多(井上馨)、大日本帝國憲法の起草の中心だった伊藤俊輔(博文)らにより、焼き討ちを受けます。
「江戸っ子の花見の場所として愛されてきた御殿山を庶民から奪い、立派な公使館を建てなくてはならなかったのか。その辺を充分に調べもせずに外国使臣団の要求に応じた幕府外交がだらしない」外国在住の幕臣の一人もこのような一文を寄せたそうです。
御殿山がいかに愛されていたか、ここから伝わってきます。
当時の御殿山の地図です。真ん中が削られているのがわかります。今の地図と見比べてみると、当時の地形が今も生きていて、ミャンマー大使館があることがよくわかります。
大政奉還、明治天皇の東京行幸の際も、東海道がルートになっていました。
江戸時代、品川はとても風光明媚で江戸っ子から愛されていた場所でした。
そして、数々の歴史的な出来事の舞台ともなってきました。
当時の名残を残しながら、形を変えて今の品川は存在しています。